飯舘・福島からの通信

菅野哲:ふるさと飯舘村を返せ 国と東電を提訴して

投稿日:

〈東京電力福島第1原発事故から10年の節目の今年3月に、福島県飯舘村の村民29人が「ふるさとを返せ」と、賠償を求めて国と東電を提訴しました。菅野哲さん(73)は、その原告団の代表です。避難先の福島市で農業を営む一方、「いつの日か飯舘村でも農業を」と、被ばくしたふるさとに通い続けています。なぜ裁判に訴えたのか、ふるさと飯舘村への思いなどについてききました。文責・星英雄〉

──なぜ今、裁判に訴えたのですか。

飯舘村の村民は、政府の避難指示が遅れたために被ばくを余儀なくされました。

東京電力福島第一原発事故が発生したのは2011年3月11日でした。ところが、政府が飯舘村全域を計画的避難区域に指定したのはそれから42日も過ぎてからでした。その間、村民は放射能を浴び続け、美しかった村の自然環境、そしてコミュニティも破壊されました。

自分の生まれ育った飯舘村は変り果て、美しかった自然環境は崩れ、黄金色に輝いていた田は、いたる所で真っ黒いソ-ラ-パネルに埋め尽くされています。涙が出ます。

過去に、東電に対して慰謝料を請求したことがあります。私を含む約3千人の村民が2014年に、被曝への慰謝料などを求めて国の原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)に申し立てました。しかし、東電が和解を拒否したため、打ち切りになりました。責任を問えずに終わったのです。

飯舘村が高濃度の放射能に汚染されたことがきちんと知らされていれば、村民は避難を急ぎ、被ばくしなかったはずです。多くの村民は健康不安をずっと抱えていると思います。この10年間、若い人ががんで亡くなっています。60代、70代でがんになる人もいます。ADRの団長を務めた長谷川健一さんも甲状腺がんになった。私もがんになりました。

この10年はなんだったのでしょうか。62歳だった私は73歳になりました。原発事故はちょうど農業に復帰し、時代に即応した新しい農家経営の改善に取り組み始めたばかりの頃でした。私も多くの村民も、人生をかけて作り上げてきたもの全てが壊され、一からのやり直しを強いられたのです。

私個人としても、けじめをつけないと死んでも死にきれません。最高裁で認められるまでに10年はかかるとして、いまやらないと生きているうちに終わりそうにありません。

東京電力福島第一原発事故が福島・飯舘村にとってどれほど悲惨な事故であったかを国民に理解してほしいと願います。それもあって、東京地裁に提訴したのです。裁判では、何としても政府、東電の責任をはっきりさせたいと思います。

〈菅野哲さん、撮影の時はマスクを外してもらいました〉

──政府は、除染したからと村民に帰村を促しています

飯舘村では村の80%は除染されていません。村の75%を占める山林も川も放射能汚染はそのままです。野山の恵みである山菜やキノコも、これから何百年と食べることも出来ないということです。これから先も住民は苦悩しながら生きていかなくてはならないのです。

放射線量が下がってきているのは、除染よりも雨によることが大きい。日本は雨が多いから、放射能物質も雨に流されます。樹木も雨に洗われます。放射能は雨で減衰するのです。しかし、樹木の根本の放射線量は高いのです。根本にたまるのです。キノコや山菜類は食べられるようになるまでに、何百年もかかるかもしれません。

キノコ類が一番吸着しますが、コメ、麦、豆、そばも放射能を吸着します。放射能は雨で地下に浸透するのでやっかいです。

原発事故が起こればこうなるのだというこの現実を、日本国民には知ってほしいし、後々の代まで伝えるべきだ、と思う毎日です。

「風評被害」という言葉は、政治・行政がつくりあげた偽りの言葉でしょう。噂による被害ということです。安全だとアピ-ルして国民を安心させて、黙らせようとするまやかしの手法です。

被災地では放射能による長期的汚染の被害が実在しています。

原発を造って稼働させたのは政府・経済産業省(旧通産省)と東電でしょう。安倍前首相が原発は「アンダーコントロール」と言って誘致した東京オリンピックはとってつけたように「復興五輪」と称しています。しかし、飯舘村や他の原発被災地をみればわかるように、どこも「復興」なんてしていません。

菅政権も東電も、10年前からたまっている処理水を、いまさらどうにもならないからと海に流すという無責任なやり方です。新型コロナウイルスについても、無為無策、責任の所在を明らかにすることなくオリンピック開催を強行するつもりです。無責任きわまりないと思います。

──昨年、新しい村長が誕生しました。飯舘村についてどう見ていますか。

飯舘村はトップ(村長)が代わって9月で1年になろうとしています。村民の被ばくを無視してきた前村長とは違う新しい村づくりに期待しています。

今の飯舘村は、8割近くの人が避難先で暮らしています。原発事故で村民は散り散り(ちりじり)バラバラになってしまい、経済行為はほとんど消えました。村民が村外にいても村づくりに携われるようにすることが必要です。どこに住んでいようがすべての村民の力を借りて、村民が力を発揮できるような施策が求められていると思います。

飯舘村の村民の絆は強いんです。村長や役場、議会ではなく、村民が村づくりをしてきたからです。自らの手で美しい村をつくろうと、取り組んできました。散り散りばらばらになっても、年に1回の総会とか、交流会をやってきました。お祭りにも取り組んできました。

逆に、そうであるからこそ村を失った村民の悲しさは計り知れないものがあります。

飯舘村の再生は、一言では言い表すことが出来ないほど困難を伴います。それでも長期的放射能汚染が続く飯舘村で、安心して暮らせる生活がいつか来る日を心待ちしているのが多くの村民の願いなのです。

先祖代々から何故山村に暮らしてきたのか、それは自然の魅力があり、暮らしに不可欠な自然の恵みがあり、暮らしやすい環境が整っていたからなのです。私たちは、飯舘村という大地に根を張った飯舘村民なのです。

とはいえ、生活が成り立つようにするのは容易なことではありません。私は避難先の福島市では1・8ヘクタールの農地で大豆、ソバ、ネギなど30種類ほどの農作物を栽培し、飯舘村には休憩場所を確保するためプレハブを立て、通っています。

そこから分かったことですが、農業を復活させるには新しい地力をつけることが課題だと思います。堆肥を入れたりして土づくりをしていますが、よみがえらせるにはまだ、まだです。戦後、何代も、何十年もかけてつくってきた土が原発に汚染されたため、はがさざるを得なかったのですから。

全国の皆様、裁判と飯舘村へのご支援・ご支持を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

-飯舘・福島からの通信

Copyright© 沖縄を考える , 2024 All Rights Reserved.