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星英雄:美空ひばりを後世に伝える『資料集 美空ひばり人と藝』

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11月に沖縄・那覇市を訪れた際、『資料集 美空ひばり人と藝』をいただいた。美空ひばりアカデミー21の編集、2005年発行。A5版、490ページの大部の書だ。素晴らしい内容の本で、多くの人たちに読んでほしいが、非売品なのが残念だ。

ひばりファンが集うことで知られる「スナックパール」の店主・照喜名マサ子さんからいただいた。本の扉には「ひばりさんの『芸とファン』への献身に貫かれた生涯に心からの感謝を込めて本書を捧げます。 美空ひばりアカデミー21会員一同」の献辞、そして献辞の隣りには、「この一枚」というほど素敵な、在りし日の笑顔のひばりの写真もある。

『資料集 美空ひばり人と藝』から。

本は「第一部 美空ひばりの人と芸」、「第二部 データで見る美空ひばりの業績」、「第三部 美空ひばりアカデミー21の活動記録」で構成されている。

NHK交響楽団の指揮者として著名な岩城宏之はひばりに惜しみない賛辞を贈っている。

「世界中で、これほど音程の完璧な歌手は存在しなかった、と断言できる」

「音楽史上、『天才』という言い方を許されるのは、モーツァルトだけだというのが、音楽界の常識である。しかしぼくはこの言葉をためらいなく、美空ひばりさんにも使いたい」

岩城はこう書いて世界の音楽史の中に美空ひばりを位置づけた。このことは、岩城という世界の指揮者、プロの音楽家だからこそ、可能なことなのである。ぼくは岩城の美空ひばり評価に感謝している。

岩城はオランダの楽団の指揮者をしていたときのエピソードも披露している。オランダの音楽家たちに日本のレコードをきかせたが、「とりわけ、ポピュラー、ニューミュージックは受けなかった」。ところが、ひばりの「柔」をきかせると「全員がシーンとなって、聴き入った」と。

岩城はこうも語る。「美空ひばりさんは、戦後日本の『歴史』なのである」「彼女の音楽的才能の偉大さを、全部の日本人にはっきり認識してほしいのである」

最後にこう締めくくる。「このような音楽家は、もう永久に現われないだろう。亡くなって十年以上たった今でも、ぼくはそう思い続けている」

岩城は1989年、ひばりが亡くなった直後の週刊朝日に「あなたは二百年分生きた芸術家だ」と、ひばりの音楽家としての52年の生涯を絶賛した。「専門家から見た、専門家としての美空ひばり論を書きたかった」と、後に執筆の動機を語っている。

日本では、クラシック音楽はポピュラー音楽より上とみる俗説が闊歩している。本当にそうか。「流行歌の作曲家を指して『芸術家』とよんでいる人はまずいないだろう。私にはこれが納得できない」とある音楽評論家は『資料集』に書く。「日本人の知性の悲しい貧しさが、美空ひばりの孤独の原因だったと言ったら言い過ぎだろうか」と、ノンフィクション作家の澤地久枝が書くのも、そのことに通じるだろう。

ひばりが5回も、沖縄公演に来たこともこの本で知った。最初の公演は急遽実現した。映画の予定が15日ほど空いたので「5年も待たせた沖縄のファンに義理を果たしたいわ」と。

ひばりは慰霊の塔も参拝した。

熱心なひばりファンとしても知られる照喜名さんも「これからもひばりちゃんの資料集めを精一杯頑張りたい」と思いをつづっている。

労音のインタビューで、「わたしは大衆の中で育ってきた歌手です。いつまでも大衆の中にいるひばりでいたい」と語るのも、忘れ難い。

データとして「新宿コマ劇場・座長公演」、「テレビ番組出演リスト」も収録されている。

「美空ひばりアカデミー21」の前身は「「横浜美空ひばり記念館」の建設促進を願う会〉だ。だから、当然のことだが、「ひばり記念館」ができなかった経緯も記されている。

歌声はもちろんだが、平和を強く思い、人間としての優しさを持っていたというひばりが、ぼくは好きだ。

あるテレビ番組で見たのだが、ひばりの付き人2人とひばりの食事をつくっていた人、女性3人がそろって「ひばりさんは優しかった」と話していた。この本でも、ひばり&スカイ指揮者のチャーリー脇野がこんなエピソードを披瀝している。

新入りの楽団員が「悲しき口笛」のイントロに失敗したとき、ひばりは「ああ助かった。もういっぺんやろうよ」と、まるでひばりがやりたがっているかのように言った。その結果、楽団員の非を指摘することなく、その場をおさめたと言う。チャーリーは「これが本当の優しさ」とひばりをたたえている。

平和を求めるひばりの強い思いは、この本でも明らかだ。

1955年、「いま何が一番欲しいか」というインタビューに「この世界から戦争がなくなってほしい」と答えたことを、この本ではじめて知った。ひばりが17歳か18歳の頃である。

「一本の鉛筆」はひばり唯一の反戦歌といわれるが、ひばりの平和への思いは深い。

ひばりがはじめて「一本の鉛筆」を披露したのは1974年8月9日、「音楽で平和の心を呼び戻そう」という第1回広島平和音楽祭(実行委員長古賀政男)だった。作詞松山善三、作曲佐藤勝、監修古賀政男によるこの曲は、広島平和音楽祭のためにつくられた。

「一本の鉛筆」のひばりの歌声も素晴らしいが、歌う前の「前口上」のセリフがひばりの人間性を物語る。

昭和12年5月29日生まれ、本名加藤和江。

私は横浜で生まれました。戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。

皆様のなかには、尊い肉親を失い、そして愛する人を失い、その悲しさを乗り越えてきょうまで強く生きてこれられた方がたくさんいらっしゃることでしょう。きょうの私の歌が皆様の心の少しでも慰めになりましたら、幸せだと思います。

これから二度とあのような恐ろしい戦争が起こらないよう皆様とご一緒に祈りたいと思います。

いばらの道が続こうと
平和のためにわれ歌う

この広島平和音楽祭を記念して新しい歌が生まれました。ご紹介いたします。

これは私にとりまして、これから永久に残る大切な歌でございます。

こう言ってひばりは、名曲をうたい上げた。

『資料集 美空ひばり人と蓺』は非売品だが、国立国会図書館、横浜市立図書館、沖縄県立図書館にはある。ぜひご一読を。

「美空ひばりアカデミー21」は、「美空ひばりの人と芸を後世に伝える活動」を続けてきた。『資料集 美空ひばり人と藝』を編集・発行したことでその任は十分に果たしたと言えるだろう。

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