飯舘・福島からの通信

佐賀規子:新しく何かをはじめるしかない─復興について思う①

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〈SAGA DESIGN SEEDS代表。『までいの力』を出版するなど、飯舘村をウオッチしてきた〉

原発事故から8年過ぎて、私の中では時間の経過とともに復興の意味が変わってきました。最初は元に戻してほしいと思いましたが、元に戻りはしないので、原発事故の前以上に、深く、新しくなればいいかなと考えが変わってきました。復興は新しく何かを始めるしかないと思います。

飯舘村は子どもたちにとっても農業にとっても危険地域になりましたが、そこに住み、暮らしていかなければいけない。子どもたちに、未来に何を残すか。いまは確信的に、「飯舘村=までいな村」が新しくなって姿をあらわしてほしいと思っています。それが私の考える復興ということかな。

原発事故の後は、みんな怒っていたし、笑顔だったし、活動もしていたけど、放射能汚染でやはりみんな「重症」だったんです。方向もわからない、飯舘村で住めるのか、それもわからない状態でした。

いろんなアーティストたちからも応援を受けました。子どもたちは慰められたと思います。避難してからは「飯舘はいいな」とか賠償金額をめぐって批判や中傷も浴びましたが、賠償金などはカンフル剤のようなものです。飯舘村の人たちは「重症」だけど、どうあっても生きていかないといけないんです。

世界の環境デモに、涙が出そうになりました。「グローバル気候ストライキ」に世界で760万人以上が参加したことも、16歳の少女グレタ・トゥンベリさんが国連で訴えた内容も。グレタさんは「お金の話や経済成長の話ばかり」と気候温暖化を作り出した大人たちを批判しましたが、原発にも共通するものを感じました。

でも、怒ったり、訴えたりしていても、人間はずっと怒り放しでいることはできないと思います。飯舘村の人たちもそうではないでしょうか。

『飯舘の女性たち』という本は、60、70歳の女性たちが自分の人生を力強く歩み始めたことを紹介しています。『飯舘村に生きて-20人の足跡』は福島大学の学生が飯舘村のお年寄りに直接話を聴き、制作しました。ある学生はこんな感想を述べています。「人の人生を聞くことで自分の人生を見つめ直すきっかけにもなった。戦争災害事故を含め辛いことや大変だったこともいい経験だったと話す人もいて、どんな経験も未来に繋がるのだなぁと感じた」。飯舘村のことを学生たちは脳裏に刻んだと思います。これらも復興といえるのではないですか。

確かに、飯舘村に人がもどらない過疎化のような現象、3世代が同居する家庭から夫婦・子どもの家庭への変化は原発事故で引き起こされましたが、すでに日本全国にあることではありませんか。夫の親と同居しなくてもよくなったお嫁さんが解放された面もあると思います。
原発事故はきっかけで、飯舘村は元々、脆弱な基盤の上に成立していたと思います。

だからといって、私が原発に賛成しているわけではありません。原発は、いまは大丈夫のようでも、いつ、どこで事故を起こすかわかりません。どこであれ、こんな小さな日本列島ですから、原発は廃炉にするまでは安心できません。

原発は異常です。黙っていることが問題です。一度原発事故が起きればとんでもないことになるというのは飯舘村でも証明された事実です。原発がなくても電気はあまるほどあるのに。

飯舘村は弱者だけの村ですか、と言いたい。村に戻る人は、故郷は離れがたい年寄りとか、弱者もいるが、私の考えとしては、ここに生きていることの意味は、なれ親しんだところの延長線上とかでないと思います。仕方がないから住むというのとはちがう、希望をもって生きるということ。やらなければいけないこともいっぱいあるはずです。

文句をいわない福島県民と思われているかもしれませんが、長いものには巻かれつつも、骨の部分は持っています。私も原発にものを申したいし、若い世代にはできる限り支援をしたいと考えています。

〈台風19号の被災地の皆さんにお見舞い申し上げます。飯舘村の復興について思うことを、4人の方に語ってもらいました。順次、掲載します〉

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