飯舘・福島からの通信

星英雄:原発事故で将来図を描けない村 飯舘村レポート2019

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これを「復興」というのか。3年ぶりに福島県飯舘村を訪れて、予想していたとはいえ、放射線量が依然高いことに驚いた。帰村を余儀なくされた高齢者は「老い先短い年寄りが高い線量を恐れていては生活できない」と、無念の心境を語った。「若い世代が戻らないと、村の将来図を描けない」という不安が村を覆う。東京電力よ、安倍首相よ、菅野村長よ、人々の悲痛な叫びをなんと聞く。

九月下旬の晴れた日、福島市内から国道114号線を経由して、車で飯舘村役場をめざした。1時間ほどで、飯舘村の入り口に到達した。交通標識に従って村役場の方向に進み、すぐに目に飛び込んできたのは、野積みされたフレコンバッグ(除染で削り取った土や草木などを詰めた袋)の山だ。3年前と少しも変わらない風景だ。飯舘村全体では今も、170万袋のフレコンバッグがある(環境省)。しかも「田や畑、村のいい場所を占拠している」(村民)というのだから、復興にはほど遠い。

村役場のモニタリングポストは「0.26マイクロシーベルト/時」を示していたが、この数値を真に受ける村民はほとんどいない。この辺りは、象徴的な場所として徹底除染されており、周囲は舗装されているのでモニタリングポストの数値は低く出る。世界の基準は国際放射線防護委員会(ICRP)が定めている被ばく限度、年間1ミリシーベルト。1時間あたり0.23マイクロシーベルトは、屋外・屋内で過ごす時間は人それぞれなので、1つの目安である。とはいえ、村役場の線量がその基準さえ超えていることは重大だ。

 

不可解なのは、村役場から数百メートルしか離れていない飯舘中学校のモニタリングポストの数値が、村役場のそれの半分程度であることだ。

次に、新築された道の駅「までい館」に向かった。「までい館」は飯舘村ホームページのトップで、帰村を象徴する場所として紹介されている。だが、最もにぎわっていたのは、工事に携わる労働者らが弁当を買い求めるコンビニ「セブンイレブン」だった。地場産品ではなく、どこにでもある「セブンイレブン」が、「までい館」の中心の場所を占めている。無理もない、「飯舘村で採取した山菜は食べないでください」と村が言っているのだから。隣町まで買いものに出かける帰村者も少なくないという。

巨費を投じたブロンズ像とまでい館に村民の眼差しは厳しい

「きこり」も帰村を象徴する場所だ。「村づくりの拠点の一つ」、「周辺を含めて除染も徹底」と飯舘村が強調する宿泊体験館「きこり」に向かった。「きこり」のモニタリングポストは0.232マイクロシーベルト/時を示していたが、そこに向かう閉ざされた車の中でさえ、線量計は0.31マイクロシーベルト/時を記録した。

「きこり」を取り巻くこのあたり一帯は「村民の森 あいの沢」として、原発事故前は村民の憩いの場であった。全国からよせられた「愛の句碑」もあり、散策路としても親しまれた。しかし、原発事故後は一変した。「きこり」のすぐそばの、あいの沢管理事務所前のモニタリングポストは0.48マイクロシーベルト/時。筆者も歩きながらこの辺りの線量を計測したが、地面から10センチメートルの高さで1・45マイクロシーベルト/時という、きわめて高い放射線量を記録した。

線量計は1.45マイクロシーベルト/時

干上がったため池

「あいの橋」が架かるため池に水はなく、干上がった汚泥がむき出しになったままだ。村はこの汚泥の放射能を計測していない。こんな環境で、「宿泊」できるのだろうか。

村内の避難解除地には、蕨平など放射線量の高い地域はいくらもある。モニタリングポストが低い数値を示しても、その周囲に「ホットスポット」と呼ばれる高濃度の汚染地帯も村中に存在する。

放射性セシウム137の半減期は30年。専門家は、飯舘村が元のようになるには100年はかかるとみている。そもそも、村人たちは、政府の除染を信じていない。飯舘村の7割を占めるという山林の放射能汚染は除染されずに放置されたままだ。風が吹き雨が降れば、山林の放射能汚染が村人を襲う。

帰村した人々に聞いてみた。

木幡一郎さん(83)は「老い先短い年寄りが高い線量を恐れていては生活できない。ここで頑張るしかない。」と語った。木幡さんは7年もの長い間、仮設住宅暮らしだった。昨年4月、仮設住宅の閉鎖を機に、帰村した。避難中は松川第一仮設住宅の自治会長として避難村民の世話役を務めていた。避難前は畜産農家だったが、村の畜産の前途には悲観的だ。

村民が避難していた間、村では野生のサルやイノシシが自由自在に横行するようになった。「今朝もサルが30匹くらい出没した。豆をもいで、生で食べて去っていった」と木幡さんは言った。

いまさらほかで暮らせないから戻ってきたという別の村民はこう言った。「原発事故前の村に戻りたいが、不可能だと誰もが思っている。若い人が戻らないのに、10年後、20年後の村の姿を描けるはずがない」。

村役場によれば、帰村した避難者は1180人。しかし、夜は明かりがついていない家も少なくないと帰村した村人はいう。実際に村で生活している人はさらに少ないということだ。避難を続けている村民はなお、4100余人(村役場)もいる。

高齢者が帰村する背景には、安倍政権が避難解除を発動し、賠償やその他の「支援」策を打ち切ったことがある。飯舘村の仮設住宅も閉鎖された。生活力の弱い高齢者は村に戻るしかない。村に愛着もある。「村で最期を迎えたい」と高齢者は言う。若い世代は「子どもの健康と学校・教育のことが最優先。村には戻れない」が、共通の考えだ。

「復興」の名の下に、菅野典雄村長が安倍政権の方針に従って村民に帰村を促したのは2017年3月末。「いいたてむら おかえりなさい式典」を開き、菅野村長が「新たな村づくり」を宣言した。しかし「村民の意見は聞かず、大手コンサルタントのいうことは聞く」との批判にさらされている。

なかでも原発事故と放射能被害について、村長と村民の対立は深刻だ。行政体としての村を残したい村長と命と健康が第1の村民の対立だ。そのことをはっきりと示す出来事があった。

帰村にあわせて村内の学校を再開したい村長と、放射線量が高いことへの不安などから再開延期を求めるPTA。「飯舘村の子どもの将来を考える会」は、村民700人余の署名を添えて、再開は2020年度以降にするよう求めた。「村のために学校があるのではなく、子どものために学校があるということを考えてほしい」、「子どもたちを犠牲にしてまで、国の言いなりにならないといけないのか」との訴えにもかかわらず、菅野村長は「素晴らしい教育ができる」と、開校を強行したのだ。

村内の学校に通えば、教材費、活動費、給食費、交通費、部活動費のバス代などは村で全額負担。村外で暮らす村民を差別し分断する政策を実施した。子どもを人質に、帰村を促すねらいでもあった。

驚くほどの優遇策にもかかわらずそこに通学する子どもたちは、0~5歳児の「認定こども園」50人、小学校30人、中学校35人の計115人(村役場)。そのうち村外からの通学者が86人もいることが村民の村長への回答といえるだろう。

いま飯舘中学校正門の入り口には「許可なく校地・校舎内に立ち入ることを禁止」するとの看板が据えられている。「敷地への立ち入りは村民でも許可がいる」とU教頭は言った。まるで村民との溝を象徴するようだ。

飯舘村は「原発の恩恵は受けていないのに甚大な被害をこうむった」村だ。2011年3月11日に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故が、放射性物質が風に乗って流れていくプルームが飯舘村を襲った。それ以前は、阿武隈山系北部の山あいに広がる豊かな自然に恵まれ、「までいライフ」というユニークな村づくりで知られた。全村6000人が村を追われた。政府や村長らの誤った対応が早期避難の機会を奪った。そのために「福島県内の自治体で最も高い集合線量の大量被ばく」(資料集「かえせ飯舘村」)を強いられた。「原発はだめだ」と村民の誰もが思う。風向きが違えば、プルームは東京都民を襲っていただろう。

「復興五輪」という言葉が日本中にあふれているが、この言葉に違和感を覚える人は少なくないと思う。復興五輪は安倍首相の招致演説「アンダーコントロール」から始まった。福島第1原発事故について「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」と言ったのだ。

しかし東京電力福島第1原発事故は、いまだ収束していない。溶け落ちた核燃料(デブリ)の所在さえわからず、汚染水はたまる一方だ。実態は制御不能なのだ。 2011年3月11日に発動された原子力緊急事態宣言の下に、いまも日本はある。しかし、安倍政権に「人間を守る」という思想はかけらもない。

手元に『までいの力』という本がある。福島の小さな出版社「SAGA DESIGN SEEDS」が世に出した。冒頭、「ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯舘村の姿があります。」と、記している。写真と文で、人々と自然が織りなす共同体としての飯舘村を知ることができる貴重な本だ。

東京電力福島第1原発事故は、飯舘村の人々から何を奪ったのか。

工夫を凝らした木造のしゃれた校舎で、子どもたちにも人気があった飯樋小学校は閉鎖されたままだ。

かつての飯樋小学校=『までいの力』

いまはない田植え踊り=『までいの力』

「原発は罪深い。田植え踊りなど地域の郷土芸能は心のよりどころでもあったのに、そんな取り組みはもうできない。地域の婦人会も老人会も成り立たない。コミュニティが壊れた」と、帰村した高齢者の1人は話す。「国は何十億円もかけて農地の基盤整備をやるが、農業をやる人はいない。百姓で飯を食おうという者はいない。どうするつもりだべ」という指摘もある。

飯舘村は貧しかった。だからこそ、そこで生まれ、育ち、生活し、田地田畑、地域共同体をつくりあげてきた。家族と地域の人間関係を大事にしてきた。なのに、東電の原発事故は飯舘村の人々が大事にしてきたものを根こそぎ奪った。一方で、東電、政府の加害者側が被害者の生活条件を決めていく。政府は東電に救済策を施し、裁判でも東電の経営陣は責任を問われることはなかった。

帰村者の1人はやり場のない怒りを語る。「何十年もの年月をかけてつくりあげてきたコミュニティ、村をつぶしてしまったことが原発の一番の犯罪ではないか。村を返してほしい」

原発事故によって破壊されたコミュニティ・村は元に戻らない。人間不在の復興なんてありえない。東京電力福島第1原発事故から8年半、この現実を直視してほしい。

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