8月15日、74回目の終戦(敗戦)の日を迎えた。東京は台風の影響か、曇り空から真夏の太陽が照り付けたかと思うと、時折雨が激しく降り、強い風も吹くという不安定な空模様だった。千鳥ケ淵戦没者墓苑(無名戦没者の墓)と、そこから徒歩5分ほどの靖国神社を訪ねた。
千鳥ケ淵戦没者墓苑は静かにたたずんでいた。喧噪の靖国神社とは、まるで別世界だ。訪れる人もそう多くはあるまい。
千鳥ケ淵戦没者墓苑は政府によって1959年に建設された。海外で犠牲となった軍人や民間人も含め、これまでに遺族に引き渡すことのできない37万の遺骨が安置されている。
千鳥ケ淵戦没者墓苑は、侵略戦争を美化する靖国神社とは別に、新しい「国立追悼施設」の場としても取りざたされてきた。
地下鉄「九段下駅」から靖国神社に向かう2~300メートルの歩道は、右派の宣伝の場となっていた。「天皇陛下の『靖国神社ご親拝』を実現させよう」、「憲法を何とかしなければ! 日本は滅びます!」等々のチラシ類が飛び交う。
神社境内では、「あの戦争は侵略戦争ではなかった、自衛戦争だ」「憲法9条改正」を主張する人たちが、集会を開いていた。主催団体の「英霊にこたえる会」寺島泰三会長の発言は耳目をひいた。「国会議員の(靖国神社)参拝は年々低下の一途だ」と愚痴をこぼしたのだ。
8月15日恒例のこの集会自体も、参加者は年々減っていると感じる。参拝者の圧倒的多数は、集会を素通りしていく。
1週間ほどまえ、NHKドラマ「マンゴーの樹の下で~ルソン島、戦火の約束~」を見た。主人公奥田凛子を演じた岸恵子もよかったが、若き日のフィリピン時代の凛子を演じた清原果耶も素晴らしかった。
日本の占領支配下にあったフィリピンには多くの日本人が生活していた。だが、フィリピン奪還を目指す米軍と日本軍の熾烈な攻防が始まった。敗走してジャングルを逃げ惑う日本軍兵士と凛子たち民間人は悲惨を極めた。
日本は降伏した。支配者だった凛子たちの立場は一転した。フィリピンの人たちから石や「父を返せ」など怒りの叫びを投げつけられた。凛子はその時になってはじめて日本人の罪を知る。「日本はフィリピンの人たちから食糧を奪い、誇りを奪い、命を奪って生きてきた。その報いだ・・・」と。
1931年月9月18日の満州事変から始まった日本の侵略戦争は、日本国民310万人、アジア諸国民2000万人以上の犠牲者を出し、1945年8月ポツダム宣言を受け入れて終わった。
日本の降伏で解放されたのは植民地支配されていた韓国・北朝鮮も同様である。しかし、国交正常化の日韓基本条約でも、日本政府は植民地支配を認めなかった。いま日韓間の焦点になっている「徴用工」問題の根はここにある。
それぞれの戦いし意味つきつめず 来し戦後なりいまに問わるる
1974年5月26日、朝日新聞短歌欄の一首という〈(吉田裕 森茂樹『アジア・太平洋戦争』(吉川弘文館)から〉。それから45年、私たちはどれほど戦争の意味を「突き詰めて」きただろうか。戦後の、いまの私たちの生活は、戦争の意味を考えることから始まったのである。
岸恵子がドラマに出演する心境を語っていた。「歴史を忘れてはいけない」