5月15日は、沖縄が日本に復帰してから50年になる。祝賀行事が開催されているが、祝うような現実が沖縄にあるのか。
沖縄の琉球新報は「復帰50年特別号」を発行。「変わらぬ基地 続く苦悩」「沖縄の民意届かず」「いま日本に問う」──が見出しである。これだけで、縄の現実がわかる。
東京の朝日新聞は1面で、「基地負担続く50年」と見出しを立てた。毎日新聞は「続く不条理を放置できぬ」という社説を掲げ、東京新聞は1面で「1日も早く基地なき島に」の見出しを立てた。いずれも沖縄が米軍基地を過大に負担していることを問う。
沖縄の日本復帰50年が何であったかは、今と50年前の「建議書」を比べてみるだけでもわかる。米軍基地の存在が、沖縄の発展の阻害要因であることはこの50年間、変わらない。
5月に公表した「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」にはこうある。
「本土復帰までの27年もの間、米軍の施政権下にあった沖縄においては、肥沃な田畑や市街地等を含め膨大な面積の土地が米軍基地として接収され、その周辺に無秩序に市街地が形成されるなど、都市計画がなされないまま、まちがつくられました」
「基地があるがゆえに様々な事件・事故が多発しました。6歳の女の子が米兵に暴行・殺害された事件、宮森小学校にジェット戦闘機が墜落し、児童11人を含む17人の死者、210人の重軽傷者を出した事故、落下傘を取り付けた米軍のトレーラーが民家の庭先に落下し、小学5年生の女の子が亡くなった事故などでは幼い命が奪われました。そのほか、米兵による交通事故や殺人、暴行事件についても・・・」
「復帰時において、沖縄県と政府が共有した『沖縄を平和の島とする』目標は、50年経過した現在においてもいまだ達成されていない」
復帰直前、50年前の建議書、通称「屋良建議書」にはこう書かれている。
「県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外なりません」としたうえで、「かつての肥沃な田畑も基地になって農業は破壊され、市街地の中心部分に基地があるため、都市の計画的開発と経済発展を阻害しております」
「本土へ復帰することによって、これまで県民の蒙った米軍基地によるあらゆる被害は解消されるものと期待し、それを要求してきました。かりに直ちにこの県民の要求が全面的にかなえられないにしても、基地の態様が変わって、県民の不安を大幅に軽減することを強く求めてきました」
県議会の「復帰50年意見書」も米軍基地を問うている。「27年間の米国の施政権下で住民の基本的人権はなおざりにされ、社会資本の整備や産業の発展も立ち遅れるなど苦難な道を歩んできた」「国土面積の0.6%の沖縄に70.3%の米軍専用施設が集中し、この50年間に沖縄県議会が抗議のために議決した意見書及び決議の半数近くは米軍基地に関連するものであり、真に平和で豊かな県民生活の実現は達成されていない」
県民の願いである「平和の島」としての日本復帰は実現していない。国土面積の約0・6%に在日米軍専用施設の7割が集中していることも変わりはない。
うるま市在住の20歳の女性が、米軍嘉手納基地の軍属に暴行され、殺された事件。県民の飲料水が沖縄の広範な地域で米軍の泡消火剤によって汚染されている問題、米軍機の落下物に逃げ惑う小学生ら。米軍基地こそが、沖縄の人々の人権を踏みにじる元凶である。
世論調査では、基地反対の声は沖縄ではつねに多数派である。
かつて、沖縄出身の青年にきいたことがある。青年はこう言った。「普天間基地の近くに住んでいたけれど、騒音も何もかも、当たり前だと思っていて疑問に思わなかった。東京に出てきて沖縄とは違う世界があることを知った」
アメリカが他国に米軍基地を置くようになったのは、第2次世界大戦の戦勝国としてだ。アメリカに、他国軍隊の基地はない。日本は侵略戦争の末に、敗戦した。アメリカは沖縄の民有地を奪い取り、米軍基地をつくった。米軍基地のあるドイツもイタリアも、第2次世界大戦の敗戦国だ。そして、沖縄の米軍統治があり、日本への復帰があった。世界史的視野でみれば、国内に他国の軍隊の基地があること自体、異常なのだ。本来、歴史の1コマにしか過ぎないものなのだ。
日本が敗戦してからほぼ77年。沖縄が日本に復帰して50年。米軍基地の存在こそが、問われなければならない。