貴重な記録である。辺野古の住民組織「ヘリポート建設阻止協議会(命を守る会)」──略称「命を守る会」の初代代表・西川征夫さん(77)が回想録『新ヘリ基地建設 辺野古住民の闘い』を出版した。「命を守る会」誕生のいきさつや同会の果たした役割がよく分かる。西川さんの回想録、琉球新報や沖縄タイムスの記事、そして写真などで構成されている。
「ヘリ基地建設に反対する『命を守る会』のおじぃ・おばぁ達が、どの様に頑張ってきたのかを、子や孫達の世代の人達に知ってほしい」。これが西川さんの回想録執筆の動機であり、切なる願いである。私もおじぃ・おばぁたちの活動をいつまでも語り継いでほしいと願う。
「命を守る会」結成に至る状況も明らかにされた。基地反対の嚆矢となる「ヘリポート移設絶対許すな」の横断幕を辺野古の入口に張った比嘉盛順さん(故人)、政治は国民が主体のはずだが、安倍政治はあべこべだと訴えた嘉陽のおじぃこと嘉陽宗義さん(故人)、そして西川さんの3人を中心に、はじめは5、6人の集まりだった。それが「夜ごと話し合いを続け、次第に区民の集まりが増えるように」なり、「命を守る会」結成となる。1997年1月27日のことだった。
「辺野古に普天間の代替施設が建設されれば、子や孫の時代に負の遺産をのこすことになる。これは絶対に阻止しなければならない」との思いからだ。「お互いの思想、信条を尊重しあい、イデオロギーを超えて、住民が主役の市民運動として地域住民に訴えること」を基本姿勢とした。
「『命を守る会』の運動が火種になって、いずれ区長はじめ行政委員会が先頭に立つて行動を起こし、私たち辺野古区民の『命を守る会』、また当事者である辺野古区民が一体となり、名護市議会・辺野古行政委員会が『ヘリポート建設反対』を採択したなかで、沖縄県内の住民運動が拡大して、政府への「ヘリ基地建設」を断念できると期待していた」が、そうはならなかった。
名護市の行政区の1つ、辺野古は保守が強い土地柄だ。基地に反対するか賛成するかで家族も、親戚も、住民も分断され、対立した。基地反対を貫くことは容易なことではなかったと思う。
辺野古区の民主化も課題だった。「事前調査・ヘリポート建設阻止・及び区行政の民主化を求める」署名簿を辺野古の区民大会に提出した。集めた署名は区民の7割にも上ったという。「普天間飛行場代替施設建設の白紙撤回を求める」要請書を提出したこともある。辺野古区行政委員会は条件つき容認の立場だ。
私がはじめて西川さんを取材したのは2013年1月だった。大城敬人・名護市議の案内で、辺野古漁港前の「命を守る会」のプレハブ小屋を訪れた。「命を守る会」は2015年に解散したが、先駆者としての意義は消えない。地元住民の反対運動がなかったら、その後の新基地建設反対運動はどうなっていただろうか。
西川さんの回想録には、5者協(構成団体は北部地区労、連合北部支部、名護市職労、自治労北部総支部、平和センター北部支部)の代表たちが「私達も連帯し活動をしたい、仲間に入れてほしい」と西川さんに申し入れてきたことが記されてるいる。象徴的な出来事だ。
子や孫の時代に負の遺産を残してなるものかと地元の住民たちが基地建設に反対しなければ、ヘリ基地反対協も、キャンプ・シュワブのゲート前の運動も今日の広がりを持つことはなかっただろう。
条件付き容認派といわれる人々に対しても言いたい。辺野古に政府のいいなりにならない人たちがいるからこそ、容認派になにがしかの「恩恵」をちらつかせる意味がある。辺野古新基地建設賛成ばかりの地域に甘い汁を吸わせるほど、権力者は優しくはないことを知るべきだ。
「命を守る会」のおじぃ・おばぁたちの運動から24年余り。菅政権はいまだに辺野古新基地建設に執着しているが、新基地建設反対運動の広がりと大浦湾の軟弱地盤の前に、前途は明るくない。
最近の日本世論調査会の全国世論調査では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を進める政府の姿勢を「支持しない」は57%に上った。
「命を守る会」の足跡に敬意を表して。
〈回想録は税込み2500円(送料は別)、問い合わせは西川さん(電話)080ー1738ー2627まで〉