小学六年生の担任が「沖縄に瀬長亀次郎という面白い人がいる。『アメリカは、沖縄の水も空気もただですうな』」等と言っているとの講話は忘れられません。私は、子どもながらに「沖縄は沖縄のもの」と胸に響きました。カメさんの演説は、子どもたちでも理解できる演説で、県民に行く手を指し示し鼓舞していきました。
カメさんは、復帰前の米軍占領下、人権、民主主義、平和等を求めて、人類の英知を体得し、不正、不条理に対して一歩も引きません。アメリカが恐れているだろうと思っていました。
家族で那覇へ出かけたとき、レンガ塀の刑務所前を通過。すると姉が「あれが瀬長亀次郎さんの家だよ」と指さします。私は、アメリカから身を守るために、頑丈な塀で囲っている刑務所がカメさん宅と思い、安全な所に住んでいると安堵したことを覚えています。カメさんの家は塀の横だと知ったのはだいぶ後のことです。
高校卒業後、あけぼの印刷に就職しました。そこは米軍の言論抑圧とたたかい、言論・出版の自由を勝ち取った沖縄人民党の機関紙「人民」の印刷をするために、自力の印刷所が必要とのことで創立されて四年目でした。瀬長亀次郎さんにも直に接する機会が増えていき、その気さくな人柄に魅了されました。
結婚から二年ほど、夫の実家で義父母家族と同居していました。孫の具合が悪いと聞いて、両親が義父母宅へ見舞いに来たのです。セナガフアンの父は、県民大会からの帰りらしく、聞いてきたカメさんの演説を保守的な義父の前で、はじめたのです。私はまずいなと思っだのですが、義父は「瀬長亀次郎さんがいるから沖縄はあんどー」といって、父に賛意を伝えたのです。
父親と義父の会話から、カメさんの生き方には、オール沖縄から共感と信頼と尊敬が寄せられていることを知りました。
未来を拓くカメさん節、今でもうまんちゅを励まし続けています。(不屈館運営委員)
〈「不屈館だより」第11号から転載〉