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星英雄:長崎原爆資料館を訪れて

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「核兵器禁止条約の会・長崎」結成のつどいの翌5月29日、はじめて長崎原爆資料館を訪れた。長崎駅前から市電に乗り「原爆資料館」で下車、坂道をゆっくり上がっていったところに原爆資料館はあった。

展示室に入るとすぐに、「長崎を最後の被爆地に」の文字に直面した。この言葉から、長崎の被爆者らが核兵器廃絶へと進む、率直な思いが伝わってくる。横には、「11時2分」を指して止まったままの壊れた時計がある。

アメリカの原子爆弾が投下されたのは、1945年8月9日午前11時2分。死者は7万3884人、負傷者は7万4909人。当時の長崎市の人口は24万人というから、驚くべき死傷者の数である。生き残った人々もさまざまな原爆症に苦しんでいる。文字通り、核兵器は非人道的兵器なのだ。

原爆投下前の長崎が、原爆投下後、一瞬にして灰燼と化した。人間も街も、跡形もない。原爆投下前と投下後の長崎が、写真として残されている。核兵器の怖さは、筆舌に尽しがたい。

若者たちがじっと展示物に見入っていた。静寂が支配している。

さらに進んでいくと、「ファットマン」という長崎に投下された実物大の模型に出会った。模型とはいえ、妙に生々しく迫ってくる。「これ」が長崎に投下された「原爆」なのだ。

捻じ曲げられた給水タンクなど、当時の惨状(原爆の威力による被害)を示す実物も。被爆による被害者の様々な病状も展示されている。被爆者たちは、これらに耐えて、闘って、今日まで生き抜いてきたのだ。

「いまわのきわに」という被爆者家族の手記が掲げられている。3人の子どもにつづいて妻をなくした男の手記。8月15日、「妻を焼く、終戦の詔(みことのり)下る」「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」・・・。怒りと悲しみはいかばかりか。

「核兵器のない世界をめざして」というコーナーにきた。世界の動きも日本の動きも核兵器禁止条約の実現へと向かってきた。「核兵器禁止条約という流れの源は、被爆者の訴えです」とあった。「市民には核兵器を廃絶できる力がある」と語りかけている。

展示室をでると、美空ひばりの反戦歌、反核の歌「一本の鉛筆」が頭の中を流れた。「1本の鉛筆があれば8月6日の朝と書く・・・」。第1回広島平和音楽祭で発表されたあの曲だ。

核兵器禁止条約はロシアのウクライナ侵略によって、なお一層切実さを増している。核兵器の製造、使用、威嚇などを禁ずる核兵器禁止条約は国連で122ヵ国の賛成で採択され、すでに61ヵ国が批准し、国際条約としてスタートした。しかし、核大国のアメリカも、アメリカの核の傘に依存する日本もいまだ批准していない。各兵器禁止条約に背を向けているこれらの国を巻き込んで、地球上から核兵器禁をなくすことが求められている。

なぜ、プーチン・ロシアは世界を敵に回し、ウクライナを侵略できるのか。プーチン・ロシアは、女性に対する性的暴行、子どもをはじめとする人々の殺傷、物資の略奪、街を破壊しつくしている。なぜ、極悪非道な、破廉恥きわまりないことができるのか。

プーチン大統領はウクライナ侵略の当日、核兵器を使用する可能性をちらつかせ、アメリカをはじめとするNATO(北大西洋条約機構)諸国を威嚇してからウクライナに軍事侵攻した。核で脅されれば、アメリカでさえすくまざるをえない。アメリカはウクライナに武器を支援しているが、ロシアとの全面戦争にならないよう、慎重に対応している。

核兵器があれば、ロシア以外にも、核兵器で威嚇したりする国などが現れるかも知れない。核兵器の使用や威嚇を防ごうとおもえば、核兵器禁止条約で核兵器そのものを廃絶するしかない。

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